消えようとしている東北の村で人々の営みを捉えた「走馬灯」、予告編など到着
人口減少の末に消えようとしている福島県西会津町奥川の村。そこで営まれる暮らしを「私だけ聴こえる」の松井至監督が捉えた「走馬灯」が、12月12日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国で順次公開される。オルタナポスター、予告編、識者のコメントが到着した。

縄文の昔から山と共にあった村には、500人の老人が暮らしている。彼らはキノコのように土と繋がり、死者と繋がり、命の終わりには親しんだ風景に消えていく──。第31回釜山国際映画祭ワイド・アングル部門コンペティションに招待された、注目ドキュメンタリーだ。
〈コメント〉
あらゆるものは移ろい流れ行くのが動的平衡のことわりである。このことをカズオ・イシグロに話したとき、彼は、記憶だけがそれに対する部分的な勝利である、と言った。部分的とは文字通りほんのわずかなかけらの集まりでしかない。この映像は、3.11以降、急速に失われ、まもなく姿を消すであろう日本の原風景へのかそけきあらがいである。しかしその記憶は、確かなエピタフとして残された者の内側に継承され続ける。
──福岡伸一(生物学者・作家)
※エピタフ=墓石に刻まれた言葉
上見れば 虫コ 中見れば 綿コ 下見れば 雪コ。
かつて雪国の子供たちがそう雪を眼差したように、自然にもぐりこんでそこに迫っていく感性は、見る者を美しくも、心もとない場所に連れてゆく。
肉薄と俯瞰のはざまを縫う余白の多い音楽が、映画の特異さをあぶり出し、あまりに特別で、これをドキュメンタリーと呼びたくない。
──寺尾紗穂(音楽家・文筆家)
死者を身近に感じる日本人は、現在どれくらいいるのだろうか。
奥川の集落では、死んだ人が生きているように話しかけられ、想われ、語られる。
生と死が交差する奥川の尊い日常が、なくならないでほしいと切に願う。
──福永壮志(映画監督)
ここは、命が還り、また生まれる場所。だから人々は、この土地を離れないのだろう。『走馬灯』は、迷える現代人に贈られた、美しくも厳かな「生きる」ことへの招待状である。
──小松成美(ノンフィクション作家)
田んぼをつくるひとが、お米をたべる。
お米をおなかにいれると、お米とひとつになる。
そんな田んぼといったいになる村びとが、稲を祈り、祀る。
村の大きな樹が、こんどは、稲とひとつになったひとをみる。
土着する、循環の生きかたが、ここにある。
それは、お米の神さまと生きる、だれしものこころにある、にっぽんの原郷である。
──早川ユミ(布作家)
声の映画である。
寡黙な映像のむこうから、いくつもの幽かな声が聴こえてくる。
だれにともなく語りかける声、ときには死せるものたちと囁きかわす声。
生きてる人も、生きてねえ人も、同じようなものだ、死んだ人も生きてるからな。
はるか昔から、山に生かされてきた村は、いま野生の懐に還ろうとしている。
みんなが土になっても、この土地の記憶が残れば、また、だれかが村を甦らせることができる。
ただ、そのために、この映画はつくられた。
──赤坂憲雄(民俗学者)
共感しかないです。
西会津の矢部さんたちの村が守られ、未来に繋がっていきますように。
私の山形のおじいちゃんの家も守れますように。
──さや(ミュージシャン「テニスコーツ」)
生きている人、死んだ人、だれが誰にどのように祈っているのだろう。
祈られているのだろう。山村の高齢者たちの、あの明るさが自分にもあれば、と切実に思いました。
──小栗康平(映画監督)
この作品を観ていたとき、『ミツバチのささやき』や『マルメロの陽光』などで知られるスペインの映画監督、ビクトル・エリセを思い出した。エリセの作品の背後には、スペイン内戦が隠れている。そして、静かに、生きるとは何かを問いかけていく。映画の鑑賞者に問いかけるのではなく、自分自身に問いかけ、映画を作りながら答えを見つけ出そうとする。
『走馬灯』の背景には、福島の原発事故を起こした現代文明の敗北がある。そしてこの映画を作りながら、制作者たちは生きるとは何かという問いに対する答えを模索していく。西会津の山里で暮らす一人の個人が生きる基盤には、自然と村人の関係がある。村人同士の関係もある。さらにすでに死者となった先輩たちとの結びつきがあり、村の神仏とのつながりがある。そういうつながり、結びつきが一人一人の村人の生きる世界を生み出し、そこに生きている存在がつくられている。
西会津の山里を舞台にして、生きるとは何かを根本から問いかけた映画を私はみせてもらった。
──内山節(哲学者)
自分は何によって「つくられている」のかを、あらためて見つめる映画でした。
観ているあいだ、ずっと涙が出ていました。
私の実家は、今も市に合併せずにいる小さな町にあります。
以前は、両親がいなくなったら、もう故郷へ帰ることもなくなるのだろうと思っていました。
ところが、両親を見送った今も、以前とほとんど変わらないペースで帰っているんです。
「土地が呼んでいるから」と、まわりには話しています。
肉体としての親はもういないですが、その土地に親はいます。
私もいずれは自分の故郷で死にたいと思います。
──中津真美(東京大学多様性包摂共創センターバリアフリー推進オフィス 特任講師)
この村では、個が先にあって社会に接続するのではなく、自然や歴史を含んだ共同体が菌糸のように絡み合っていて、その一部が個として立ち上がってくる。人は、きのこのように存在している。
私たち都市に生まれ育った人間が失い、失ったことすら忘れてしまった、存在の根っこについて、その圧倒的な映像とサウンドとで喚び起こしてくれる「存在論的郷愁」の映画である。
──加藤学(ライター)
消えゆく集落の知恵を記録に残そうという映画なのだろう、という予感が見事に裏切られた。年寄りたちの土地に根づいた暮らしの強さ、おおらかさ、しなやかさ。米作りや山菜採りをたのしみ、「死んだ人だって生きている」と語る老人たち。かれらの生き様は、レジリエンス、モア・ザン・ヒューマン、メタモルフォーゼを、観念ではなく、生きた思想として示している。雪や雨や風や陽の匂いのするかれらの言葉と思想は、現在の危機と混迷の時代を生き抜くための羅針盤だ。
──結城正美(青山学院大学教授/エコクリティシズム)
「美しい」に満ちた一篇だ。
「美しい」は苦悩も痛みも含んでいる。
もし表層的な快に直結する「美しい」しか感知できないならば、人類はその記憶を喪失し、自壊するだろう。
苦悩も痛みも「美しい」に変換し昇華する力が、人にはある。
それが先人の蓄積してきた文化の総体だ。
この美しい映画でなされた試みは、小さなことかもしれないが、その根は深く、力強い。
──川延安直(喜多方市美術館館長、元福島県立博物館副館長)
「当たり前に死者と生きる人たち」を、目の前に見せてくれる作品だった。けれどそれは西会津にだから「残っている」ということではなく、現代の都会を生きる人たちの中にも「眠る」感覚なのだろう。この死者と生き続ける感覚は、生きること/死ぬことを対置させることでなく、むしろ生者であれ死者であれ、草木であれ、雪であれ、「総体としての“いのち”」として常に共にあることに、最終的に流れ込んでいるのではないだろうか。こうした感覚を現代人が取り戻すことができたら、どれだけ「孤独」や「自己責任」から救われるだろうか。
──高木良子(文化人類学)

「走馬灯」
監督・撮影・編集:松井至
プロデューサー:CHARLOTTE COOK
支援:FIELD OF VISION
出演:矢部佳宏、矢部幸子、小椋サカコ、小椋ユアコ、宮澤一一、宮澤恭子、矢部タミ、石井アツ子、荒海享俊、矢部隆一、三瓶トミノ
音楽:永井朋生 構成:竹岡寛俊 サウンドミキサー:髙梨智史 カラリスト:齋藤直彦
プロダクションマネージャー:山口佳織 協力:奥川地域づくり協議会 製作:リトルネロフィルムズ
企画開発:佐藤恒平 配給:走馬灯上映委員会 宣伝・配給協力:ブライトホース・フィルム デザイン:BOOT
2026/日本/カラー/DCP/5.1ch/113分
© Itaru Matsui
公式サイト:soumatou.jp
