「映画館は“ボディ”だ」濱口竜介、三宅唱、三浦哲哉が「急に具合が悪くなる」ロングラン上映を記念して特別鼎談イベントを実施
去る9月5日、映画「急に具合が悪くなる」のロングランヒットを記念した特別トークショーが、東京のBunkamuraル・シネマ 渋谷宮下にて行われた。登壇したのは、本作の監督・共同脚本を務めた濱口竜介、映画監督の三宅唱、映画研究者の三浦哲哉の3人。この3人といえば、フィルムアート社のサイト「かみのたね」で、2018年から「映画の演出」についての対話を続けていることでおなじみ(この対話は2025年に『演出をさがして 映画の勉強会』として本にまとめられ、同年の『キネマ旬報』の映画本大賞で見事1位に輝いた)。本作「急に具合が悪くなる」についても「かみのたね」にすでに長大な鼎談記事(リンクは記事の最後に)があがっており、今回の鼎談イベントは、いわばその延長戦。

この日のトークショーでは、上映後の熱気冷めやらぬ観客の前で、濱口演出の妙に迫る舞台裏のエピソードがいくつかのシーンをあげながら披露されたほか、映画制作におけるお金の問題、さらには今後撮ってみたい映画の話など、多岐にわたる対話が繰り広げられた。3人が定期的に行っているという「勉強会」の雰囲気もうかがえ、ひじょうに興味深いものだった。ここでは、その詳細リポートをお届けしたい。
最初の挨拶で濱口は、「いつもこの3人では楽しく話しているので、今日も楽しく話していいですか?(笑)」と客席に語りかける。すると三宅が「楽しく話すつもりで入ってきたんですけど、映画が終わった後の拍手を聞くと、ちょっと楽しくなくなってきましたね(笑)。頑張ります」と応じ、会場には笑いが広がった。この日のチケットは、公開後2カ月半経っているにもかかわらずソールドアウト。当然会場は満席で、その影響もあってか、批評的な緊張とくだけた笑いが同居する鼎談の空気は、冒頭から早くも立ち上がっていた。

雨が降ったから生まれた場面――偶然を映画に取り込む
本題に入り、まず三浦が質問したのは、シナリオに書かれていることと実際に撮られた場面との違いについてだった。その一例として三浦は、映画の序盤、マリー=ルー(ヴィルジニー・エフィラ)と智樹(黒崎煌代)が出会う場面を挙げる。トラム(路面電車)に乗ったマリー=ルーが並走する智樹を窓越しに見かけ、彼を追いかけて公園の丘を登ると突然雨が降り出す。そこでマリー=ルーが智樹に顔を近づけて、雨宿りをするため、「ここで待ちましょう」とフランス語、英語、日本語で話しかける。それで一気に二人が通じ合う。三浦はここで「ものすごく前のめりになって、とんでもないことが起きる映画だ」と感じたという。だが、シナリオを読むと、このマリー=ルーと智樹のやりとりが書かれていないという。三浦は、あの決定的なやりとりがどのように撮られたのかを濱口に尋ねた。
濱口は、これは「この映画の中で分かりやすく制作現場が偶然に対応した場面」であり、「要するに雨が降ったわけですね」と明快に回答。もともとシナリオでは晴れの設定で、まったく異なる出会いの場面が構想されていたという。しかし現場で、(そのシーンの撮影が予定されている)月曜にかなり強い雨が降るという予報が出る。「雨が降ることを前提に考えなくてはいけません」と金曜に告げられ、濱口は土曜に雨パターンの脚本を書くことに。フランスでは日曜日は完全休日になるので、撮影当日の朝に翻訳をしてもらい、変わりやすいパリの空の下、濱口は雲の動きを読むアプリを見ながら、雨雲が来る瞬間を待ってあのシーンを撮ったと振り返る。「午前中はかなり強く降るけど、午後はもう晴れてくるということも予報で出ていたので、あのシーンはカメラ2台態勢で雨雲を待ちました。『ここで待ちましょう』というセリフも雨パターンだからこそ生まれたもので、その後の場面(智樹に「楽しかった、トモキ、またね」とマリー=ルーが話しかけて去る)があることはもちろん決まっているので、そこで突然日本語をしゃべりだすよりは、ここでふっておいたほうがよさそうだ、ということで入れたんです」と濱口。
「かみのたね」での鼎談を通して、本作を「偶然がたくさん起きて作られた映画」だと知り、驚きながらも感動したという三浦だが、三浦が前のめりになった場面は、まさにその偶然への対応から生まれたものだった。

“泣かせる”のではなく、“こみ上げる”ものを撮る
続いて三宅が切り出したのは、「涙」についてだった。三宅は今回の映画には登場人物が涙を流す場面が多くあることを指摘。そのうえで濱口に、涙を流すことを(芝居設計ではなく)映画全体の中でどのように位置づけようと考えていたかを尋ねた。
濱口は、まず原作(哲学者の宮野真生子と人類学者の磯野真穂による往復書簡)を読んだときに、「腹から上がってくるような感覚」があり、それが映画化の大きなモチベーションだったので、「泣く泣かないにかかわらず、エモーションが高まるということは、この映画の中で起こるべき」と考えたという。そのうえで、「操作的にここで泣く仕掛けですよ、といって泣くのではなくて、登場人物たちの知性、態度、アティチュードを見たら、自然と何かがこみ上げてくるということが理想」と語った。それは、原作が決して本人たちが感動させようとしていないのにもかかわらず、読んだ側が感動してしまうということに符号したものであり、「(この映画では)そういうこと自体をやりたかったんです」と濱口は語る。
この話題は、前述のマリー=ルーと智樹が出会う場面の前で、マリー=ルーがトラムの車内で泣く場面の撮影秘話へと広がる。マリー=ルーを演じるヴィルジニー・エフィラは、「私はいつでも泣けるから大丈夫」と撮影前に話していたが、実際にトラムに乗って撮影が始まると、狙った場所で全然泣けなかったという。「しかもあれ(トラム)、一回乗ったらもう降りられないんですよ」と濱口が言うと、三宅がすかさず「一回乗ったら降りらんないトラムってどういうの?(笑)」と反応する。濱口によれば、普通に市街を走るトラムに乗せてもらって撮影しているため、スケジュール上、降りて引き返して撮り直すことができなかったのだ。
幸い、ヴィルジニーはその後、当初予定していた場所とは違うものの、無事泣く演技を終え、現在のシーンが出来上がった。
濱口は「泣く演技って本当に大変ですよね。急かさずに、ヴィルジニーさんが泣けるまで待ったんです。だからパリに詳しい人が見るとわかると思うんですが、あの場面、全然背景はつながってないんですよ。あと、たぶんご本人はポロリと涙をこぼすみたいなのを想定してたと思うんですけど、いろいろ掘り返さなきゃ泣けなくって、結果的に嗚咽するみたいになってしまって……本当に一回きりっていう感じでした」と振り返る。
予定された涙と、予定通りにはいかない現場。その偶然もまた、本作の感動のひとつを作っていたのだ。
三宅はこのマリー=ルーが泣くシーンについて、例えば「ドライブ・マイ・カー」では泣くことが終盤のピークであったのに対し、ここでは「泣かなくっていい人が泣く」点に注目。まだ物語の序盤であるし、キャラクター的にも、介護のプロフェッショナルであれば、親しくしていた人が亡くなっても泣かないことは十分あり得るからだ。だが濱口は、マリー=ルーを人目もはばからずに泣く人物として描いた。三宅はこの描写について、「もし濱口タッチなるものがあるとしたら、人物がシーンごとに決して一面的に固定されないこと」だと指摘する。「観客が“こういう人なのかな”と思った次の場面で、その予想と違う行動、あるいは新しい行動を見せる。その積み重ねによって、マリー=ルーという人物への“この人ってどういう人なんだろう”という関心が持続していくのが、面白さになっている」と、濱口演出の妙を語った。
ちなみに、泣くシーンの演出話は、思わぬ余談――濱口は普段泣くことがあるのか? という話題にも広がっていった。三宅からの質問に対し、濱口は「恥ずかしながら、この映画の編集中に泣いた」と回答。編集中、とくに正面ショットで何度も目が合い、それを注視していると、「ガーンとくるのが結構毎回新鮮に起こってしまって」思わず泣いてしまったという。やはり、俳優からこみ上げてくるものを常に感じながら、映画を作っていたということだろう。

「その一瞬一瞬以外に何がありますか」――長塚京三のロングテイク
映画中盤の大きな山場として語られたのが、長塚京三演じる清宮吾朗が、急に具合が悪くなった真理の部屋を訪れ言葉を交わす一連のロングテイク(長回し)だった。三浦はその場面について、「長塚さんの芝居がものすごく素晴らしくて、あそこで本当に魅力の全容が現れる。本当に素敵なシーンで、僕らがどれだけ感動したか」と熱を込める。ベッドの真理を見つめる長塚、窓から差し込むようなオレンジ色の光、木の影が揺れ、途中から青い光へと変化していく、そこへ智樹が入ってきて「おかえりなさあい」と言葉になっているかどうか微妙な声を発しながら現れ、さらに入れ替わるようにマリー=ルーが現れる。
三浦から、このワンショットでたくさんのことが起きるシーンがどう撮られたかを尋ねられた濱口は、「実際に施設の部屋に照明を作って流し込んで、それをだんだん絞っていくというのを、芝居の進行と合わせながらやった」と説明。照明部にはかなりの苦労を強いたが、明らかに人工的な照明になっており、「(演出として)果たして成功しているかと言われたら、分からない」としながらも、そこは「この映画で、時間の推移に関してはぜんぶ変で構わない」と割り切ったという。「この映画には、マジックアワー的な時間がものすごくたくさんあるんですけど、実際の光の具合とはだいぶ違う。特に(前半の)セーヌの岸辺の場面と、(終盤の)京都の山の場面ですけど、あれは2時間くらいの光の変化が10分くらいの場面に圧縮されてるわけです。実際に体験してみたら、あんな風に日は暮れていかないし、あんな風に夜明けは明るくならない。でも『映画ってそういうもんでしょう』っていうスタンスでやっているところがあり、その延長として、(長塚さんの)照明で作ったシーンもいいんじゃないかと思っています」と濱口。
この場面は、吾朗が次の公演に出るため、真理との最後の別れになる可能性がある場面でもある。三宅は、「俳優としては、当然その感情のレベルを用意してくる。もしそれが何かのきっかけで崩れてしまうと考えると、夕陽なんかやってる場合じゃないと考えることもできると思う」と指摘。にもかかわらず照明作りを実行した濱口に対し、「そういう監督の人でなしの部分と、現場の両立って、どう考えているんですか」と問う。
濱口は、あの場面の演技が簡単ではないことは十分理解したうえで、「なんども繰り返せるように」あの照明を採用したとし、そのうえで、「ああいう場面は、リアリズムに基づく強度とは違う、自分がこれまで見てきた映画としての強度、どっちかというとフィクションとしての強度っていうのが求められているっていう感じがある」と語る。あの長塚演じる吾朗が本当に信じられる存在として見えるためには、俳優の演技がベストであることに加え、フィクション的な要素も必要で、その両方がすごく大事だったと言うのだ。
なお、この場面では、何も残せずに死んでいくと話す真理に対し、吾朗が「何も残さなくてもいいじゃないですか。あなたと稽古していた時間は楽しかったですよ、その一瞬一瞬以外に何がありますか」という、本作屈指の名台詞を発する。濱口はこの場面も、(正面ショットではないにもかかわらず)「編集しながら泣いてしまう場面」だったと明かす。

映画を持続させるために必要なもの
トークショーも後半に入り、話題は映画にかかるお金へと移った。三宅は「濱口さんはいくらあれば映画作れるみたいな感じはありますか?」と尋ねる。濱口は「題材による」としながらも、スタッフやキャストに「ちゃんと払わなきゃいけないから、必要以上に予算を小さくすることはできない」と語った。
ちなみに「急に具合が悪くなる」は、濱口監督作のなかでも最も高額な予算がかけられているが、「予算が少ないからといって、その作品がより悪い映画になるかというと、きっとそうではないだろうと思っているから、難しい」と語る。三宅も「もはや20代のころの金額では撮れない。それは当然だけど、めちゃくちゃ必要かっていうとそうでもない」と応答する。三宅は、回収することを考えたら、もっと予算をかけるべきなのか? と悩ましさを吐露しながら、「10年前といまでは回収できる場所(映画館)やお客さんの状況が変わっている。自分の映画を見てくれる人は増えたかもしれないけど、そもそもどうやって回収するかの感覚も変わってしまって」と語る。
そこで三浦が持ち出したのが、(「急に具合が悪くなる」の劇中でホワイトボードに書かれる)「ボディ」という言葉だった。三浦は、例のホワイトボードのシーンになぞらえて、「制作費がちゃんと回収ができればいい(資本主義が回ればいい)っていう話ではなくて、仕事に携わる人の身体(ボディ)であるとか、ネイチャー、そういうものがきちんと養われないと、たとえ規模が大きくなっても結局は行き詰まるっていう話ですね」と話す。さらに「それで言うと、例えば映画館がちゃんとあって、人を集めて見せていくことも大事で」と広げると、三宅が「映画館がボディだということですかね」と受けた。
濱口は、週二日が撮休だった今回のフランスでの経験をふまえて、「ちゃんと休んで、ちゃんと回復していくサイクルは、根本的になくてはならない」と語る。「本当に遅まきながら、自分自身が40代で回復も遅くなってきて、無理がきかなくなってくるという状況の中で、回復がないと、単純に自分もこれからどんどん撮ることができなくなってしまうし、若い人たちもそんな状態のところに来るはずがないと思うので。『悪は存在しない』と『急に具合が悪くなる』では、そうした状況に対する応答を、単純に言葉だけじゃなくて、ある種の実感として、制作体制とか全部含めて、果たそうとやっているとは思います」と濱口。
映画を支えるものは、作品の中だけでなく、それを作り、観て、受け継いでいく身体の側にもあるのだ。

二人の新作、そして映画における声の重要さについて
お金と制作現場をめぐるやや重いテーマをくぐると、鼎談は次回作についての話題となり、一気に軽やかな企画会議のような時間へと転じた。
三宅が「濱口さん、次は何撮ればいいですかね。何が見たいですかね」と三浦に振ると、三浦は「僕やっぱり小津のリメイクはやってほしいなと思うんですよね」と提案。濱口は「いやいやいや。ちょっとスッと流していいですか」とかわし、会場の空気は再びくだけていく。
さらに三宅は濱口に「宇宙人と遭遇する映画」を撮ってほしいと提案。濱口も「SFとは違う、コミュニケーションが成り立たないものとどう関わっていくのかっていうことには非常に興味があります」と応じる。すると今度は濱口から三宅に「市井の人たちの暮らしの中にすっと出てくるようなアクション映画を撮ってほしいと思ったけれど、それはすでにいろいろなところでやっていると思うから、アクション映画を撮っている映画」を撮ってほしいという提案が返ってくる。三宅は「それは面白そう、いいね」とまんざらでもない様子。

最後には客席を交えたQ&Aがあり、その中で「声」について質問が寄せられた。濱口は「(自分の映画にとって)声がすべてだというふうにほとんど思っています」と語った。映画は第一に視覚メディアであるとしながら、「私が撮っている場面というのは、基本的には非常に平板で単調なものだと思っているんですが、そこに何かの奥行きを加えてくれるものは、ただ声であると思います」と明かす。三浦も「この映画はほんと耳に心地よい、声を堪能する映画」と応じ、三宅は二人を受けて「濱口さん、声映画の企画も考えているんですよね? やっぱり合唱映画を作ろう。濱口さんの映画で人が一緒に歌をうたうっていうのは、もう多分泣いちゃうね」と声をはずませる。最後まで、風通しのよい3人の言葉のやりとりは続いた。
気がつけば予定の1時間が経過。会場のお客さんも、密度の高い鼎談に満足してそれぞれ何かを持ち帰ったように感じられた。締めの挨拶で、三浦は「本当に何回見ても面白い映画です。『かみのたね』の記事もとても面白いので、読んで、また見てください」と語り、三宅は、「今日は映画館がボディということがよくわかって良かったなと思いますので、また映画館でお会いしましょう」と続ける。濱口は「このメンバーで話すと、単純に話すのは楽しくなってしまって。またどこかで私たちの話を目にする機会があるかと思いますが、皆さん楽しんでいる私たちを見て楽しんでいただけたら嬉しい」と締めくくった。
映画館で映画について楽しく語り、それによって新たな映画の見方や観客を生み出していく。まさに映画館こそ「ボディ」だと思えるような時間は、なごやかな雰囲気で幕を閉じた。
(取材日:2026年9月5日/取材・文=前田健雄)
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■3人の勉強会を収めた書籍『演出をさがして 映画の勉強会』(フィルムアート社/定価2600円+税) は発売中
■「急に具合が悪くなる」をめぐる鼎談は以下のリンクを参照
「かみのたね」 https://www.kaminotane.com/2026/09/03/29110/
ロングラン上映記念特別鼎談イベント
【特別鼎談】濱口竜介×三宅唱×三浦哲哉
『急に具合が悪くなる』をめぐって―番外編―
日時:9月5日(土) 10:20の回上映後
登壇者:濱口竜介監督、三宅唱監督、三浦哲哉氏(映画研究者)
場所:Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下7F
「急に具合が悪くなる」
大ヒット上映中
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