【劇評!】ゲームの規則はGame Overがないこと? ベケット不条理演劇の傑作『エンドゲーム』が開幕

撮影:田中亜紀(以下同)
5月20日より新国立劇場小劇場でサミュエル・ベケット作、小川絵梨子演出の『エンドゲーム』が上演中だ。同劇場の芸術監督としての任期が今夏をもって終了する小川絵梨子がみずから演出を担当するのは、伝説的と言ってもいい不条理演劇の名作。代表作『ゴドーを待ちながら』の4年後、次回作として発表された。『ゴドー』をさらにブラックに煎じ詰めたような『エンドゲーム』を、なぜ小川は任期の終わりにあたって選んだのか? 現在という「いま、ここ」で『エンドゲーム』が上演される意義とは? 今回の貴重なベケット上演を実りあるものとして受け止めたい。
薄い黒だよ。隅から隅まで世界一面

オーディションにはなんと1016名もの応募者がいたのだという。『エンドゲーム』の登場人物4人に対して1016人である。この数字は、日本の舞台俳優たちがいかにサミュエル・ベケットの登場人物を演じたがっているかを雄弁に物語るのではないか。「極めて難解」とされるベケット演劇だが、敬遠されるどころかカルト的と言ってもいいような支持があり、不可思議な魔力で私たちを惹きつけてやまない。
ベケットの代表作『ゴドーを待ちながら』がウラジーミルとエストラゴンという2人の人物の掛け合い漫才のようなものだったのと同じく、『エンドゲーム』もハムとクロヴという主従関係らしき2人の登場人物の掛け合いで成り立っている。『ゴドー』の4年後に次回作として発表された『エンドゲーム』は、前作の『ゴドー』の短調による変奏であり、別テイクであり、続篇でもあり、陰画(ネガ)でもあるだろう。
ただし、状況は『ゴドー』よりも切迫している。田舎の一本道で途方にくれる『ゴドー』の2人はまだ進める道が与えられていた。ところが『エンドゲーム』のハム(近江谷太朗)とクロヴ(中山求一郎)は部屋に閉じ込められている。ベケットは戯曲を次のような舞台説明から始める。
「家具のない室内。グレーのライト。下手(しもて)と上手(かみて)舞台奥の高いところに小さな窓が二つ。カーテンは閉まっている。上手前方にドア。ドア近くの壁に絵が一枚裏返しにかかっている。下手前方に二つのごみバケツがくっつけて置いてあり…」
ハムはキャスター付きの椅子に腰かけたまま動けず、目も見えないものの、主人のように振る舞う。そんなハムに外の様子を報告するように命令されたクロヴは、しぶしぶ脚立に乗って窓のカーテンを開ける。クロヴの答えは「ゼロ、ゼロ」。太陽は? と尋ねられたクロヴは「灰色。灰色だよ」と答える。「灰色だと! 灰色って言ったのか?」「薄い黒だよ。隅から隅まで世界一面」。世界は滅亡したのだろうか。ハムとクロヴがうごめくこの部屋は、核戦争あるいはパンデミックで人類が死滅したあとの、備蓄が尽きつつあるシェルターかと思われる。
登場人物の痛苦も逡巡も私たちのもの

演劇の鑑賞法は人それぞれかと思う。俳優の演技をライブで受け止めることを重視する人が一番多いかもしれないが、筆者はというと、俳優が最も大事であることはもちろんだが、それ以前に、その俳優が過ごす舞台空間に最初に目が行く。セットのしつらえを目で追いながら、自分がミクロな探査機になって空間内をうろつくことから始める。舞台空間を知ることは、その上演が根ざす世界観を知ることになると考えるからである。
美術の小倉奈穂による部屋のセットは、演出の小川絵梨子の要請によって「頭の形を連想」させるものとして設計され、さらに「窓を開口部ではなく≪目≫として見せたい」という要請を受けて、カーテンは横に引くものではなく、跳ね上げにしたのだという。これによりカーテンが上下にすべるたびに、瞼が開いたり閉じたりするようなイメージとなる。窓は、黒いサングラスで閉ざされた盲目のハムになり代わって開閉される両眼にも思える。
いま、新国立劇場小劇場のステージは、誰かの巨大な頭蓋骨に変身し、死を、人類の終焉を、歴史の結末を幻視しようとしている。誰かの頭蓋骨の内部から眺めた、一面灰色と化した世界。もちろん見つめられているのは、私たち人間の景色の灰色っぷりである。
痛み止めの薬も底を突きかけて、ハムはもう座して死を待つほかはないのか。ハムとは、破滅にむかってよろよろと進む私たちの末路の姿であろうか。椅子にくくりつけられ、痛苦に耐えるハム役の近江谷太朗は、まるでフランシス・ベーコンの絵画に頻出する、内なる傷痕が表面に肉塊として露出させてしまったあの痛切なる肖像画を活人化させた存在に見える。
登場人物たちの置かれた状況を自分に引き付けたとき、演劇は私たちの生と地続きの琴線上に現れる。今回上演のハム、クロヴ、ナッグ(田中英樹)、ネル(佐藤直子)の4人は、不条理演劇に現れた形而上的な存在ではない。そんな小難しく考える必要はまったくなく、ハムの痛苦は私たちのもの、クロヴの逡巡は私たちのもの、ナッグの饒舌も、ネルの消滅も私たちのものと考えれば、ベケット演劇が身近になるのではないかと思う。
〈純粋演劇〉の生成現場へ

クロヴ「なんでこんな茶番劇ばっかり続けるんだよ、来る日も来る日も」
ハム「日課だよ。理由なんかない。夕べは自分の胸の中が見えたよ。大きな腫れものがあった」
クロヴ「ふん、心臓でもみたんだろ」
ハム「違う、動いていたからな」
(※上演台本より引用)
上のようなわずかなやり取りの中にも、3つの事の本質があられもなく見えている。1つめはタイトルでも明らかなように、登場人物がゲームの〈終わり〉の到来を自覚していること。「心臓でもみたんだろ」というからかいに対して「違う、動いていたからな」と自虐的に返す。戯曲に現れる第一声が、クロヴの「おしまい。終わりました。終わりそうです。もうすぐ終わるはずなんです」というセリフだったことからも明らかだ。ベケット研究の権威イノック・ブレイターも著書で書いているように、『エンドゲーム』は「絶え間ない暇乞(いとまご)いの準備」として演じられ続ける。
事の本質の2つめは、その〈終わり〉なるものが来そうで来ないこと。茶番劇が「来る日も来る日も」続く。「理由なんかない」日課として。ブレイターも「別れはいつも不完全だ」と書き、「永遠に終わることのない静止画よろしく、『身動きもせず立ち尽くす』。ベケットの言葉どおり、これは正しく『純粋演劇』である」とまで結論づける。上演の幕はとりあえずの句読点にすぎず、ベケットに言わせれば演劇には終わりなんてないのである。〈身動きもせず立ち尽くす〉ことで〈純粋演劇〉なるものが立ちのぼってくると言うなら、私たちはこぞって初台駅で下車し、新国立劇場の座席に腰かけ、〈純粋演劇〉なるものの生成現場に立ち会うべきだろう。
「終わればまた始めればいい」というベケットの宣言

事の本質の3つめは、クロヴが「なんでこんな茶番劇ばっかり続けるんだよ」と自問するように、登場人物自身が「茶番劇」の演技者であると自覚していること。ブレヒト以後のヨーロッパ現代演劇にとって、この自覚性は宿命的な試練となった。「これはカンタータなのです」とベケットは『エンドゲーム』をみずから評し、「2つの声部のための」と言い添える。カンタータとはバロック時代に確立した教会音楽のジャンルで、くり返しくり返し神への愛を訴え、キリストに向かって「来て」「来て」と悲愴に誘いの言葉を反復する音楽形式である。
登場人物たちはおのおの自分たちが演技者であることを自覚し、さらに互いに依存すべき対象として求め合う『エンドゲーム』が、ゲイカップルのツンデレ物語であると解釈しても、あながち間違いだと断定はできまい。劇の最初のセリフに対して、今回上演台本の翻訳者である岡室美奈子は、公演プログラム内で「『おしまい。終わりました。終わりそうです。もうすぐ終わるはずなんです』と、終了宣言から徐々にトーンダウンすることで、あとの芝居が展開する隙間が生じます。終わりの手前から始まって限りなく終わりに近づいていく、そのわずかな“あいだ”に成立する物語」だと看破している。
なるほど、この〈トーンダウン〉の変調こそベケット的カンタータの、わずかなユーモアさえたたえた求愛と暇乞いがないまぜとなったラブソングだったのであり、またそこに生じる〈隙間〉こそ、雪崩を打って人類終焉へとむかう崩壊現象の只中にぽっかりと口を開けたエアポケットのような、台風の目のような頭蓋骨の空間だったのである。
ハムも、クロヴも、終わるよ終わるよと唱えながら、なかなか終わろうとしない。オオカミ少年のように。「消えろと言ったはずだ」と機嫌の悪いハムに毒づかれたクロヴが「そうしようと思ってる。産み落とされたときからね」と言い返すにもかかわらず、クロヴはいっこうに立ち去らない。
いっぽうハムは、もっとダイレクトに次のように吐露していた。「終わりは始まりのなかにある。それでもひとは続ける。たぶんわたしも物語を続けられるさ。終わればまた始めればいい」と。〈ゲームの規則〉はGame Overがないということ。茶番劇の演技者である自覚を抱えつつ、不機嫌ながらも求愛のカンタータをデュエットし続け、その歌声はやみそうでやまない。その光景を、演技者たちに見返されながら見つめてきた私たち観客は、はたと気づいて、このように呟くだろう。「私もハムとクロヴのように終わらない。終わりが来るその1秒前まで」
文=荻野洋一 制作=キネマ旬報社 制作部(山田)

【公演タイトル】
『エンドゲーム』
≪あらすじ≫
家具のない室内。舞台奥に小さな窓が二つ。カーテンは閉じている。壁際にはバケツが二つ、並んで置いてある。古ぼけたシーツを被って車椅子にかけている盲目のハム。もうひとり、クロヴが不自由な足取りで室内をウロついている。どうやら主従関係のようだ。二人はとりとめのない会話を続け、ハムは常にクロヴに文句を言い、怒鳴り散らし、イライラしている。クロヴはたまに外を覗いたりもするのだが、見えるのは殺伐とした風景。お互い、そんな日常に絶望しうんざりしていた。やがて退屈しのぎにハムが、バケツの中の人間に話しかける。中にいたのは彼の父親らしい。そしてもうひとりは......。
【公演日程】
2026年5月20日(水)~31日(日)新国立劇場 小劇場
【スタッフ&キャスト】
【作】サミュエル・ベケット
【翻訳】岡室美奈子
【演出】小川絵梨子
【美術】小倉奈穂
【照明】原田飛鳥
【音響】竹田 雄
【衣裳】前田文子
【ヘアメイク】高村マドカ
【演出助手】渡邊千穂
【舞台監督】梅畑千春
【出演】近江谷太朗 佐藤直子 田中英樹 中山求一郎
【主催】新国立劇場
詳細はこちら⇒https://www.nntt.jac.go.jp/play/endgame/
